あれは、私が一人暮らしを始めて間もない、夏の終わりのことでした。アパートの部屋で、人生で初めて、黒光りする巨大なゴキブリに遭遇してしまったのです。半狂乱になりながら、どうにか殺虫スプレーで仕留めたものの、「まだ仲間がいるかもしれない」という恐怖に、私は完全に支配されてしまいました。そして、ドラッグストアに駆け込み、最も強力そうな燻煙タイプのバルサンを購入したのです。説明書には「2〜3時間後に換気」と書かれていました。私は、その日の夜、夕食と入浴を済ませ、午後10時にバルサンを焚き、友人宅へ避難することにしました。「長く置いた方が、効果も高いだろう」。そんな素人考えから、私は、翌朝までそのまま放置することに決めたのです。それが、大きな間違いの始まりでした。翌朝、意気揚々とアパートに戻り、ドアを開けた瞬間、私は強烈な化学薬品の匂いに襲われ、思わず咳き込みました。部屋の中は、うっすらと白い靄がかかったようで、床はどこかザラザラしています。慌てて窓を全開にし、換気を始めましたが、その匂いはなかな消えませんでした。そして、悲劇はそこからでした。お気に入りの黒いワンピースには、白い粉のようなものが付着し、シミになっていました。パソコンのモニターは、なぜか薄汚れて見えます。そして、何よりもショックだったのが、大切に育てていたポトスの葉が、すべて黄色く変色し、ぐったりと萎れていたことです。ビニールをかけるのを、忘れていたのです。私は、その日一日を、マスクをしながら、家中の床と壁を拭き、すべての食器を洗い直し、衣類を洗濯し直すという、途方もない作業に費やすことになりました。ゴキブリの死骸は、確かに数匹見つかりました。しかし、その代償は、あまりにも大きかったのです。この苦い経験から、私は学びました。説明書は、メーカーからの最も重要なメッセージであり、それを無視することは、百害あって一利なしだということを。