「昨日の夜、リビングで見かけたあの一匹、きっとどこかの隙間から勝手に出ていったんだよ」。そんな私の能天気な独り言が、どれほど大きな代償を払うことになったか。これは、現実逃避が生んだ我が家の悲劇の記録です。あの夜、私は確かに大きなクロゴキブリを目撃しました。しかし、虫が苦手な私は、戦う勇気も殺虫剤を噴霧する覚悟もなく、ただ「見なかったこと」にしました。そして、翌朝に姿が見えなくなっていたことを都合よく解釈し、彼が再び外の世界へ戻っていったのだと自分に言い聞かせました。一週間が過ぎ、二週間が過ぎても姿を見かけないことに安堵し、私の警戒心は完全に消え去っていました。しかし、異変はキッチンの片隅から始まりました。ある朝、パンを焼こうとトースターを動かしたとき、その裏側に小さな黒い粒のようなものが散らばっているのに気づきました。最初は焦げカスかと思いましたが、よく見るとそれは独特の嫌な臭いを放つゴキブリの糞だったのです。私の背筋に冷たいものが走りました。「出ていった」はずの彼は、実は私の家の最も暖かい場所を拠点にし、夜な夜な私の知らないところで生活を謳歌していたのです。さらに恐ろしい事態が判明したのは、その数日後でした。シンク下の扉を開けた瞬間、そこには数匹の、まだ赤みがかった小さな幼虫たちが這い回っていました。あのとき見逃した一匹は、ただの迷い込みではなく、すでに卵を抱えた雌だったのです。彼女は私の家を「安全な産院」として選び、誰にも邪魔されることなく次世代を解き放ちました。業者が来て冷蔵庫を動かしたとき、壁の裏に張り付いたおびたしい数の抜け殻と糞の跡を見て、私は泣きそうになりました。業者の人は淡々とこう言いました。「ゴキブリは、自分から家を出ていくことはまずありません。彼らにとってここは、天敵もいなくて食べ物がある最高の場所なんですから」。私の勝手な思い込みは、彼らにとって「最高の保護期間」を与えたに過ぎませんでした。結局、キッチンの全消毒と、徹底的な隙間封鎖、そして大量の毒餌設置に数万円が飛び、精神的な平穏を取り戻すまでにはさらに長い時間を要しました。もし、あの夜に一歩踏み出して対処していれば。もし、「勝手に出ていく」なんていう甘い考えを捨てていれば。今の私は、一匹のゴキブリも逃さないという強い決意とともに、毎晩キッチンをアルコールで磨き上げています。見逃すことは、彼らを招待することと同じである。この苦い教訓を、私は一生忘れることはないでしょう。