それは、古書店巡りが趣味の私が、念願だった初版の文学全集を手に入れた、喜びに満ちた日のことでした。家に帰り、逸る気持ちを抑えながら、古びた紙の匂いが心地よいその本を、そっと開きました。その時、ページの綴じ目のあたりから、銀色に光る、細長い何かが、素早く這い出してきたのです。シミ(紙魚)でした。体長は1センチほど。その原始的で、どこか不気味な姿に、私は思わず本を取り落としてしまいました。喜びは一瞬で、恐怖と嫌悪感に変わりました。慌てて他のページをめくると、幸いにも、目立った食害の跡はありませんでした。しかし、私の心は穏やかではありませんでした。この一冊の本が、私の大切な書庫全体を汚染する「トロイの木馬」になってしまったのではないか。その日から、私と見えない敵との、神経をすり減らすような戦いが始まりました。まず、問題の本を大きなジップロックに入れ、完全に隔離。そして、本棚の本を全て取り出し、一冊一冊、虫や卵がいないかを確認し、ハケでホコリを払うという、気の遠くなるような作業を行いました。本棚の隅々を掃除機で吸い、アルコールで拭き上げ、除湿剤と防虫剤を新しく設置しました。数日間、隔離した本を観察しましたが、幸い、新たな虫が現れることはありませんでした。しかし、この一件は、私に大きな教訓を与えてくれました。それは、外部から物を家に持ち込む際には、常に害虫が潜んでいるリスクを考慮しなければならない、ということです。特に、古本やアンティーク家具、あるいは宅配便の段ボールなどは、その格好の媒体となり得ます。あの銀色の小さな侵入者は、私に、愛するものを守るためには、時に臆病なくらいの慎重さが必要なのだと、身をもって教えてくれた、忘れられない教師となったのです。